6月の雨の庭

中3女子、中1男子ふたりの子どもがいる、40代も半ば過ぎたところにいる母の日記です。

今度の課題

小学校や幼稚園の友達ママと連絡を取ったり会ったりすることで、なんとなくスイッチが入ったような気がします。一日家にいるのは、わたし自身にはよいことだけれど、『没頭したい』モードになってしまうので、子どもたちにはよくないようで...ひいては「母としての」わたしにとっても、精神衛生上よくないので、休みは自分のことにダラダラとかまけていられていいものだけれど、そろそろ終わりにしないと、という時期なんだなぁと。


友達の話...というか、間に人を介して「心配事・問題」が起こっているようだ、ということを聞いて、またいろいろと思うところがありました。『比較』というわけではないつもりだけれど、語弊を含みつつ、あえて言ってみれば「ケーススタディ」的な部分もあるか...その人本人の問題を、直接相談されたわけでもないし、もとより、人から言われてどうこう...とか、解決するとは思っていない、というのがわたしのスタンスなので、あえてそのような言葉でくくってみたわけですけれども...で、わたしのこと、子どものこと、オットのこと、家族全体のこと、周囲の人たちとのこと、仕事やお金のこと、身体のこと、精神的なこと...どれも密接に結びついていて、根っこは同じなんだということを強く自覚しました。


「大事な本質を忘れない」「他人や周り、ほかのことのせいにしない」と思うだけで、かなり物事の見え方が変わったし、ひいては家族に対して感謝が溢れるような感覚を得られているんだけれども、それをその家族(や周囲の人たち)に伝えていく、というのはとても難しい...というのが、次なる課題かな。日常の中で伝わっていく部分もあるだろうけど、つい自分の余裕のなさというか、身勝手さが出てしまうときも多いし(たとえば前述の「没頭したい」という自我もそう)、感謝や愛といったものを感じていたとしても、それを「どんな言葉で伝えるか」はまた違った話になってくるんだということを痛感する今日このごろで。


この数日、頭の中をもたげているのは『言葉の暴力』という言葉。「暴力」というと、とても強い言葉になってしまう気がするけれど、わたしの中での「戒め」として心にとめている、というか、心に浮かんでいるというか。スピ的な意味合いでの「愛の溢れる」言葉だけを使いたいのにもかかわらず、なかなかそうなれない自分がいるわけで。随分とネガティブな言葉は使わなくなったし、別のコミュニケーション法で言われる「Iメッセージ」(「わたし」を主語にして文章を組み立てる)ことも意識できるようになったけれれども、それでも「まだまだ」。特に、ちょっと時間があるだけに、不安な気持ちももたげてくるし...。


子どもたちのことも、「その子のため」といいながら、どこか支配的・恣意的な扱いをしているんじゃないか、って思うと、やはり気になるところが多くて。「愛」とも「慈悲」とも、言葉にするとむずかしいし、イメージの違いもあるかと思うけれど、何か、誠実で素直に、謙虚さも持ち合わせながら、言葉の持つエネルギーを大事にして、表現していく、というのが今の課題かなぁ。


知識や知恵ばかり知っているだけではいけないし、そこだけをよりどころにしていてもいけない。自分の考えや気持ちにつながる一助にはなるかと思うけれど、それが自分のものとなった上での言動でないと...ただ、人の知識や知恵に頼るだけでは「自分を生きる」ってことでもないわけだしね。自分の中にも無理が出てくるわけだし、本当の自分でもって家族や周囲の人たちとかかわりをもっていくことができてないわけだろうし...。


そんなことを考えている(考えさせられた?)数日でした。