6月の雨の庭

中3女子、中1男子ふたりの子どもがいる、40代も半ば過ぎたところにいる母の日記です。

祈り

とうとう...なのかな、以前から気になっていたこと、心配していたことが「こんな形で...」と表れた。本当にこの数ヶ月、特に、いろいろなことが起こっていて(いや、いつも起こっていたけれど、それに気づくようになった、ということか)...。


ある人のことで、周囲の人たちまでもが動揺している。わたしもきっと2ヶ月前だったら、すっかり同じように動揺していたことだろう。わたしが心配したところで何も変わらないというのはもちろんあるけれども...相手を思うことと、自分まで感化されて動揺するのは違う、ってことがよくわかったなぁと...まぁ、なんというか、大きいこともあるので、どうしようもない...いや、でも、大きい小さいにかかわらず、人のために動けることって、どのくらいあるんだろうか、っていうのもあって...いずれにせよ、わたしはほかの人にはなれない。


ひたすら祈っている。


ちょっとしたことで歯車が狂う、ってことは現実にあることで、特別な感性だとか、感覚だとか、過酷な状況...に限らず、いろいろな物事がぐるぐると悪い方向に渦を巻いて落ちてく感覚、それを目の当たりに見てしまった。わたしなりに、いろいろな機会を得て「最悪の事態」を予測していたんだけれども、ある意味、まさにその最悪の事態になったんだと思う...自分のことではなくて、自分の近くにいた人のこと。

この数ヶ月間に起こっていたことがすべてつながっていたように感じる。わたし自身、そのひとつひとつに対して、いろいろと学んできていて、そうして学んだことを少しずつ実践に移していて...その経験があったから、今、こうして「自分の判断」が持てるようになっているんだと思う。このタイミングだったからこそ、自分をひどく損なうことなく、事態に耳を傾けることができたのだと思う。


わたしはその人のやり方には賛同しかねつつも、それがその人の生き方なのだから...と、個人的には悲しいけれど、それを否定するつもりはなかったんだよね。程度の差こそあれ、その人がとっていた方法論は、いささかの拡大解釈を加えれば、わたしが若い頃にとっていた自分なりの「自己防衛法」として共通するように感じていた部分もあったから...。
ただ、そういう頭の中での理解はあったけれど、もちろん、その人のことは好きで、受け入れられない部分はあったけれど
尊敬もしていたわけで...。


人が破綻する、ってこと、すごく考えさせられた。いや、考えているさなか、だよね、まだまだ。

@ @ @

「フツウの人生」を歩むことのむずかしさ、むしろ、逆の生き方ならいくらでもできる、と思っているけれど、フツウではない、平凡ではない人生を選ばざるを得ない人、というのもあるんだよね、言葉にしてしまうと当たり前だけれど。


何かを、どこかで...いくらでも気づいて大事なことは何かわかってできただろうに...いや、そうじゃないところに、なのか...いずれにしても、そうせざるを得なかった生き方って...!!!!!!!!


せめて周囲で動揺している人たちだけでも、まずは何かに気づいて新たな一歩を踏み出し始めますように。


わたしの中の、善なるもの、全なるものに向かって、ひたすら祈る。祈る。祈る。