6月の雨の庭

中3女子、中1男子ふたりの子どもがいる、40代も半ば過ぎたところにいる母の日記です。

受けるよりは与える方が幸いである...!

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年度末らしくどたばたの毎日が過ぎていく。たまたま仕事もひとあし先に「新しいこと」が始まった。長女の学校での保護者向け聖書教室も今年度はおしまい、最後は高3の保護者の方たちの送別会でもあって、おひとりおひとりのお話を伺いながら、何度も涙が溢れた。その席で読まれた聖書の箇所(使徒言行録20章32~35節)、
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、ともにいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱いものを助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。
 新しい道へと進んでいくときの、ふさわしい内容だった。
わたし自身はクリスチャンではなく、聖書についても詳しくないので、ほんとうの意味に触れるのはまだまだ先なのだと思うけれど、今、このタイミングで深く感じ入るところがあった。
 
 ほんとうにこれまでどんなに自分のことしか考えてこなかったのか、とも思うし(思うだけで恥ずかしい)、たとえ「人のため」と思ってやったことであっても、結果として受け取るものは差し出したものよりも多くて決して「与えて」いるのではないなと思う。人との交わりの中でしか得られない喜びや成長もあって、もしかしたら逆の言い方...ほんとうの喜びは人との交わりの中で得られる、というように感じるところも大きい。
 
やっていることはごくごくささやかなことであるけれど、その感覚があるかないかは自分にとってはとても大きい。もちろんまだまだエゴも多くあるけれど、それでも自分の中では随分と、やっていることへの感謝や評価などを意識することがなくなった。たまにはちょっとむくむくっともたげてくるところもあるけれど、それはまだうまく心を開けない相手であるサインでもある。

まだまだこの言葉を前にして恥じ入るしかないんだけれど、まずはその「意識」ができただけでも大きなことだと感じた次第。この年齢になってかよ!とわれながら恥ずかしくもあるんだけれどもねぇ...今までの自分っていったい、というのももちろん同時に感じていますです、はい。 

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長女の学校で学べることはとても恵まれていることで、そのことを折に触れて学校は伝えてくださっていることも知る。なかなか本人たちが「ほんとうに」理解するにはまだまだ時間がかかって、その前に保護者のわたしがはっと気づかされたくらいで(それにしてもわたしはいささか遅すぎるが)。長女の学校は、さまざまなことを頭ごなしではなく、考えさせる場を与えてくれて、それを見守ってくださっている。それってほんとうにお互いにしんどいこと。待つ側にも相当のきびしさを受け入れていることのすごさを感じる(本人たちはまだまだ気づかないんだろうけども)。

生徒同士にもそれがあるから、いろいろと悩んだり迷う時間も結構ある。高3の母親たちの何人かが「娘も随分と鍛えられて」という表現を使っていたのもわかる気がする。先生が細かくルールを作ってその指示通りにさせれば、反発しつつもとりあえず従っていけば進むことも、なまじ本人たちに場面場面で考えさせて、折り合いをつけていくことにはエネルギーが要る。おまけに校則もあまりないから自由で個人が尊重される分、その中で自分を出していく難しさもあるわけで...。

長女もいよいよ部活で新入生に指導する学年になるのでかなり緊張している。先輩のことだけ考えて動くことにようやく慣れたと思ったら、今度は下級生たちに、となるのでまた新たな課題がたくさんあるはず。「鍛えられている」んだなぁと思う。