大きな大きなみえないふるい
いいものにふれる。 - 大きなみなとの太陽の下で。の中で引用(<マーマーマガジン日めくりカレンダー)されていた、
「いつもいいものにふれる」ということを意識するようにします。ものや人のうつくしいところにぜひ着目して。上手に行う人を観察することも大切です。一緒にいて気持ちのいい人、運のいい人、おもしろい人とも時間を共に過ごすようにして。
という中の「気持ちのいい人」と共に時間を過ごす大切さってあると、最近つくづく思う。もともと好き嫌いが激しいほうで、学校や仕事ではガマンしないといけなくても主婦になってからは自分でいやならなるべく避けるようにして無理してつきあう必要はない...と思っていたものの(今でもまぁ変わらずかな?)、でも、そうじゃなくって、おのずといっしょにいて気持ちのいい人ばかりが集まる、という状態にもっていく・キープすることの大事さ、っていうのも感じる。
去る者は追わず、来る者は拒まず、という言葉に昔はいろいろな意味でギョッと思ったし、その関係性の薄さってさみしいなぁとも思っていたけれど、今ではそれって基本かもなぁと思う。みなに好かれよう、よく思われようというのも違うなぁと思うし(もちろんできればみんなによく思われたいけどもさ)自分としては執着したいころを経て、自分がどうこうしようがしまいが変わらない、というのを悟ったせいかもしれない。基本的に、多くの場合は、穏やかにフラットな状態でいたいと思うのでそのスタンスのためにかの言葉は非常に有効かと。
繋がれるときには繋がるものだ、というのもあるし、引き止めたくても離れてしまうことはあるんだよなと。家族や一部の人に対してまでそこまで思えるかどうかはさておき、ひとまず、はい。
誠意をもって接しているつもりでもやっぱり...と思うところもある。
年が明けて、年賀状のやりとりにもがっかりする人がひとりふたり。たとえ形式的なやりとりだと互いに承知してても、それはないだろう、と思うことも...宛名の漢字が間違えていたり、なぜかオットの名前だけで送ってきたり:もちろんオットとは面識もない...そういうつきあいならやめてしまいたい。もう来年は出さないでいいよなぁ...どっちがやめるかキッカケ待ちなんだろうし。年に1度のことすら興味ない相手に出し続けるのもなんともいえないもので。
目に見えないふるいがあって、それはわたしがふるいにかけているのではなく、自分から離れた向こうにふるいがあって、なんだと思う。SNSで本名も知らない人とだってしあわせな関係作りができるわけだし、しがらみで無理してつきあう必要もない、と思った次第で、はい。