6月の雨の庭

中3女子、中1男子ふたりの子どもがいる、40代も半ば過ぎたところにいる母の日記です。

朝の礼拝とひさびさの映画鑑賞。

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今朝は朝練もある長女のおべんとう作りと洗濯から始まり、ばたばたと朝家事を済ませて、オット&長男よりも早く家を出る。途中、電車の遅延があってかなりの急ぎ足で学校に向かったが、なんとか朝の礼拝に間に合った。

長女の学校では毎朝、全生徒および職員が一堂に会し、礼拝が行われており、年に数回保護者が参列することができる。短い時間なのでわざわざ行くのも、という気持ちも結構ありますが、別の集まりがあると短い時間といえども間に合わず、せっかくなら行けるときに、というか。

折しも今日の説教は母の日の話だった。もちろん、母親に日頃の感謝を示してプレゼントを贈ろう、ということではなく、子どもに対して親やほかの家族が「一日の無事と楽しい一日を祈る」ことを祈られた側の子どもがそれを思い出す機会となるのなら、それはそれでよいなと思ったり。そういう場が与えられている長女にはどう響いたのか...。

そのあと、また電車に乗って映画を見てきた。
映画『ブルージャスミン』予告編 - YouTube

なんとなくこれまでの人生のうち、こちこちに固くなった部分ってことやら、精神的に病んでしまうのっていうか、「世界」は自分の見たいようにできている、ってことだよなと改めて思う。だいたい、今、自分が見ている世界だってどうなんだか。

今朝は洗濯を干しながら、こうした「ふつうの生活」というのが自ら望んでいたことだったと思ったばかり。●●のような(むかしむかしつきあっていた人)「やさしい」男の子がほしい、と思っていたことを唐突に思い出した(その人はいっしょに遠出した先でお茶したケーキ屋さんで母親と妹のためにお土産を買っていたのだった)。ちょっとやさしい感じで「おかあさん」といってくれる息子、そうだ、そういうのがいいなぁと思っていたんだよな。

あまり意識的に「女の子がほしい」と思ったことはないのだけれど(それは自分に似ていたら嫌いになりそうだし、なにより自分の中に「女の子の母」という姿が想像できなかったから)、長女にはなにかわたしの中のさまざまな限界で見ることができなかったことを見せてくれているような気がしている。学校のことだけでなく、ある部分自分に似ている気難しさをもちながら、自分とはまた違った場にいると、どう変わっていくのかを見せてもらっているし、どう見ても、わたし自身の境遇よりかはあらゆる意味において恵まれていて、そういう場で育つことを見せてもらっているような。

もちろん、あくまで長女は長女の人生であるのもわかっているし、わたしの満たされないものを満たすとか、投影するとかではないし、もしそういう面があるとしたらあくまでラッキーなおまけであり、たまに「もし自分が男だったら」みたいなレベルで想像することができる特典、みたいな。

ジャスミンは「転落人生」ってあったけど、転落かーー。こわいよな。一寸先は闇、なんて違う教訓を得た。

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その後、いくつかお店をまわって、本と雑貨と文具を見たけれど、あまりピーンとくるものがなく、残念。かなり疲れて、早めに帰宅。長女への誕生日プレゼントと、自分にはマステ2個買ってきた。