6月の雨の庭

中3女子、中1男子ふたりの子どもがいる、40代も半ば過ぎたところにいる母の日記です。

時代の流れについていけない

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わが家のチューリップ開花第一号。今朝になって咲いていた。感動!!
写真、すぐうしろに木があってその先に桜があって...写真では、桜の終わりごろのように見えますが、桜は満開でまだ緑はなく、緑は手前の木の葉です。
日中、ベランダのレースのカーテンも少し開けて花が見えるようにしておく。

朝、家計簿記帳を済ます。2週間分ほど...だけど、普段以上に買い物していたので、結構手間取り、集計をしてやはりその額を見て「ぎゃっ!」と心の中で悲鳴をあげそうになった。そんなに散財したらまずい...えっと、今日からまた意識を改めて、と思ったけれど、あまり意識するとダイエットのようにむしろひどくなるし、かといって忘れていると使いすぎちゃうので、どちらにも意識を向けず中庸をめざすこととする。

長男は明後日「前日準備」ということで小学校に出かけ、入学式の準備などを行うのだけれど、そのときに図書ボランティアの作業もいくつかあって...と、手帳を見直すたら、すっかりひとつの作業が途中のままだと気づく。われながらその抜け具合に驚いてしまったけれど、驚いてばかりもいられず、せっせと作業する。そして意外と時間がかかるという...で、今ではすっかり、なんだか「よくぞ気づいた」くらいに思っているようになってきた(でも、それは違う)。

家計にしても、作業にしても、「えっ!?」と驚くことばかり。どうしてここまでヒトゴトでいられるのかと...短期記憶なさすぎというか、気が抜けすぎというか。地に足がついていない、というか。なんだかねぇ。

それに関係しているのかはわからないけれど、なかなか集中力・気力も続かず。寝食を忘れて(趣味に)没頭する、ということもすっかりなくなったような。忙しくないのになんだかのんびりできない、というのもある。つい「こんなことをしていていいのか」とよぎる。ゆっくり本を読む余裕がない。

ちょこっとだけ息抜きをしよう、と思って、スマホのニュースアプリであれこれ読んで、リンク先からまたさらにリンクをたどって読んだり...っていうのを朝晩15分もしていないと思うのだけれど、それでも「情報めいっぱい」になって、いささか頭がぱんぱんになっちゃうような感じがよくする。いわゆる「情報断ち」というのも実感として必要だと思うものの、いざ何も見なかったりすると、後から知って驚くこともあって...なんていっても、まぁ、いつ知ってもさほど影響ないか...。
本だとこんな感じはないからやはりネット特有なんだろう、たぶん。

実は、Twitterもすっかり見るのをやめてしまった。やめたらやめたでぜんぜん困らない。中受つながりも少し薄くなって、共通する話題がなくなったことが大きいかな。以前は「速報!」みたいなのも知りうる場だったから、見なくなった今、ちょっとだけ遅れているって気がするけれど、なんでも知りたいわけでもなく、ちらっと知ったからこそまた調べたくなるだけで、知らないで済むならそれはそれで。

Facebookも基本的には仕事のためが中心で(プライベートなことは友だちの中のさらに限定にしている)、タイムラインをきっちりさかのぼりきれないときも多く、それはそれで済んでいるなぁ、とも思う。

昔...たとえば学生のころならともかく、そんなに誰かのプライベートを日々知るってことはなかったはず。いくら毎日顔を合わせる友だち(や知り合い)でも共通する場を離れたらわからないことも多いし、たまに話題になったことを話したにしても、毎日のようにどう過ごしたかというのは知らなかった。

たまに、自分なんてほーんとツマラナイ日常生活だなぁと思うことがある。ものすごくうらやましい、というのとは違う(「うらやましい」のなら、できる範囲でやればいいだけのことだから)。なんというか、「記事」になるようなことがあまりに少なく、特に、Faceb●okはブログ以上に相手にアピールする意味合いが強いからなおさら「わざわざ言うこと」がないなぁと、つい思っちゃう、という意味で。しかも、現実世界と直結しているから、いろいろと制約が多すぎることもあるかなぁ...。

アウトプットとインプットのバランスってあるし、そもそもの絶対量もあるんだろうと思う。「ホームページで日記」をしていたころにも変化を感じていたつもりだったけれど、なんだか世の中の流れがますます速くなって、とうとうついていけなくなってきた、というところなのかもしれないな(いや、ずいぶんさかのぼったとしても、厳密な意味でついていけていたのかどうかもアヤシイんだけど、それはちょっとおいといて)。